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陸奥国分寺
Dec.01, 2001 日本最北の国分寺

奈良時代中期の天平年代、日本は疫病、飢餓、政情不安定などによって混迷していた。そのような状況下の天平13年(741年)、当時の日本の統治者であった聖武天皇が全国六十数ヶ国にそれぞれ国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を一つずつ建立する詔を発する。それによって天皇は、多数の病死・餓死者を弔い、民衆の平穏無事を願ったといわれている。そして、仏教の力をかりて国家鎮護をめざしたといわれている。

現在の東北地方の太平洋側の青森、岩手、宮城、福島県は、その当時、陸奥の国とよばれていた。聖武天皇のその詔により、この国の国分寺は、国府のおかれていた多賀城(現在の宮城県多賀城市)から南西へ約10km離れた宮城野(現在の仙台市若林区木ノ下)に建立された。これにより、ここは日本で最北に位置する国分寺となった。この寺の創立者は行基菩薩であるといわれている。創建されたときには、七重塔、七堂伽藍・三百坊を有する大寺院であったと伝えられている。七重塔は、承平4年(934年)、落雷によって焼失し、それ以後再建されることはなかった。

文治5年(1189年)には、源頼朝が奥州藤原氏を追討した際の兵火によって七堂伽藍・三百坊も焼失してしまい、草堂に仏像を残すだけであったといわれている。室町時代の寛正年間に真言宗の寺となり、現在までつづいている。そして、音如によって中興され、薬師像の入仏供養をしたといわれる。その後、地元国分氏の庇護のもと、薬師如来銅像、十二神将像、不動明王像、毘沙門天王像などがおかれる。慶長10年(1605年)には、仙台藩主の伊達政宗によって3年の歳月をかけて、薬師堂、仁王門、鐘楼、塔中二十四坊が造営された。昭和30年代から50年代にかけて発掘が行われ、土塁や掘立柱列などが確認されている。現在は、約3万坪の境内に、陸奥国分寺跡をはじめ、仁王門、薬師堂、鐘楼、準胝観音堂、大塔、陸奥国分寺本坊、横綱谷風ゆかりの牛石と足跡石、松尾芭蕉の句碑、大淀三千風の句碑などがある。

今回掲載した写真について述べておきたい。一番上のタイトル横の写真から順に説明しよう。
1.大塔。昭和57年(1982年)に完成。総高21メートル。密教の影響をうけた重層の塔。1階には金剛界大日如来像が安置され、2階と3階には釈迦の遺骨と信徒の永代供養の位牌が安置されている。
2.聖武天皇(肖像画)。第45代天皇。701年生誕、756年没。天皇在位期間は724~749年。文武天皇の第一皇子であり、光明皇后とともに仏教を熱心に信仰した。国分寺・国分尼寺の他にも東大寺と大仏を建立した。
3.仁王門 。単層入母屋造りの茅葺屋根。左右の門内には、密迹金剛と那羅延金剛の仁王像が安置されている。県指定の重要文化財。
4.鐘楼。単層屋根入母屋造り。梵鐘は江戸時代の享保10年につくられたが、太平洋戦争のときに供出。現在の鐘は、昭和41年に再鋳造された。
5.薬師堂。慶長12年(1607年)、伊達政宗によって再建される。桃山様式の単層入母屋造り。本瓦葺の仙台最古の建築物。堂内には、薬師如来像や月光菩薩像が安置されている。国指定の重要文化財。

6.慈母観音像。薬師堂のすぐそばに建てられている。

7.準胝観音堂。文治5年(1189年)に焼失するが、延享2年(1745年)に伊達宗村によって再建される。本尊には準胝観音像がある。仙台三十三観音の25番札所になっている。
さて、今回は陸奥国分寺について紹介した。当然のことながら、この寺には西洋の教会や寺院のような華麗な美しさはない。しかし、ここにいると、日本独特の「ワビ、サビ」に通じるものや、情緒・風情というものを強く感じることができた。ところで、私自身には神仏への信仰心は全くない。ちなみに、天皇という日本伝統の君主を尊ぶ心情も全くない。しかしながら、国分寺を宗教から切り離し、それを単なる文化遺産、美術的な建造物として鑑賞するのは好きだ。あるいは、日本史における国分寺という存在の意義や役割を考察することには関心がある。
-DATA-
- 場所:
- 宮城県仙台市若林区木ノ下
- 交通:
- 仙台市営バスの大和町経由霞の目営業所前行きに乗車し、薬師堂聖和学園前にて下車。
所要時間約20分。そこから北へ徒歩約1分で仁王門。 - 駐車場:
- あり
- トイレ:
- 準胝観音堂に接する公園内に公衆トイレあり
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