パドリングレポート

サブナビゲーションをスキップ


フィールドレポート

現在のレポート数は811件です。

最新記事
最近のコメント
カテゴリー
バックナンバー

Since Apr.01,2000


« 1996年05月パドリングレポート:トップページ1997年05月 »

~第9回 鳥羽-神島トライアル~

Jul. 1996 アイランド・シーカヤッキング いざゆかん。潮騒の島へ

~第9回 鳥羽-神島トライアル~:イメージ1

シーカヤックによるアイランドホッピング。今回はイベントでの島渡りをご紹介します。この鳥羽から神島を、2日間で往復するという「鳥羽~神島トライアル」は、今年なんと14回目の開催を予定しているという、国内のシーカヤックに関するイベントでは、もっとも長い期間実施されているもののひとつです(今年のイベント概要につきましては、シーカヤッキングワールドの「イベント情報」を参照してください)。

僕がこのイベントに参加したのは、もう5年前となる第9回目のとき。古い話で誠に恐縮なのですが、イベントの内容自体は大きく変わっているとは思えないので、ここに発表させてください。そしてなぜ今更か、というと実はこの記事、今はなき「探検倶楽部」という雑誌のために書いたのだが、掲載する前につぶれてしまったのである。Gofieldのこの場をお借りして供養もさせてくださいませ。

このイベントのときに、今や本まで出しているさすライター、ポチ直美さんとはじめて会っていた。柴田丈広サイン入りの黄色いホライゾンに乗っていた彼女は、その時からけっこう目だっていたのだろうか?僕が撮影した写真に結構写っていたのであった。

~第9回 鳥羽-神島トライアル~:イメージ2 ~第9回 鳥羽-神島トライアル~:イメージ3

その年の7月最終週末であった27日から28日にかけて、三重県の鳥羽から伊勢湾の入口に浮かぶ島、神島へシーカヤッキングで渡り、そして帰ってくるという鳥羽-神島カヌートライアルが開催された。(主催:鳥羽市観光協会、協賛:アサヒビール(株)、雪印乳業(株)、UCC上島珈琲(株)、(株)鳥羽水族館、(株)御木本真珠島、伊勢湾フェリー(株))

~第9回 鳥羽-神島トライアル~:イメージ4

日本で行われるカヌーイベントとしては最も古く、第9回目となったこのイベントには56艇60名が参加した。

27日の朝、シーカヤックを載せた車がぞくぞくと鳥羽小涌園のビーチに集まってくる。気温はすでに30度に達し、車から降りた途端、汗が吹き出した。

~第9回 鳥羽-神島トライアル~:イメージ5

9時50分、海水浴を楽しむ子供達を横目に次々とビーチを出発。先導船に導かれ北上する。坂手島の裏をまわって鳥羽水族館の前に出た。水族館の海を臨む窓という窓には「ナンダナンダコノシュウダンハ」といった顔が並ぶ。今は夏休み、家族連れが多い。坂手島をまわりこみ、進路を東にとる。いよいよ横断開始だ。ほどなく右に菅島、左に答志島。島に挟まれた水道を漕いでいく。6隻の伴走船が我々一団を取り囲むように並走する。この船の多い海域を海上保安庁の船も出動、少し離れた位置を進む。そして地元のカヌーショップ、ゴーリキに拠点を置く伊勢大湊カヌークラブ(当時)の精鋭12名がサポートする。

時折やや強い風が正面から顔にあたる。海が小刻みに震えるので風が渡るのが見える。熱いのでパドルを持つ手を海に沈めながら漕ぐ。あたたかい。この豊穣の海も年々汚染がひどくなる一方だという。

12時、休憩地点である菅島の先端に上陸。艇を抜けるなり海に飛び込むもの、日陰に寝っころがるもの。出発する時に渡されたバナナやチーズを腹に入れ、水分を補給する。夏の海の上では自分が思っている以上に体内の水分を出してしまっているものだ。のどが渇いていないと思っていても定期的に充分に水分を取るようにしないと熱射病、ハイパーサーミアにかかってしまうのだ。

13時30分、出艇だ。上げ潮となった海は波が高い。何人か出艇に失敗する。急いでスタッフが救助に向かう。

~第9回 鳥羽-神島トライアル~:イメージ6

菅島を出ると神島がうっすらとシルエットとして海の上に浮かび上がった。神島、かめ島ともいう。遠くから見た島の姿が水ガメを伏せた形に似ているため、かめ島と呼ばれるようになったとも、亀に似ているので亀島と呼ばれたとも言われる。そして三島由紀夫の小説「潮騒」では、歌島の名でその舞台となった。

菅島の影で遮られていたうねりも直接艇にあたるようになった。正面からの風、上げ潮の流れ、そしてうねり。海面は不規則に歪み、パドリングのペースを乱す。ここ伊良湖水道は日本三大潮流のひとつに数えられている。潮流を考えて針路をやや南に取り、神島を2時の方向に見つつ進む。正面に異質な建造物。神島と菅島を結ぶ線上に設置されたそれは、海底の地質調査の為というが、何がうまれることになるのか。橋か、空港か、湾という湾をいじりたいのだろうか。

~第9回 鳥羽-神島トライアル~:イメージ7

隊列が次第に伸びだした。様々なレベルのシーカヤッカー達が集まるのだから当然か。後方ではついてこられない参加者の回収が始まったようである。細かい、しかし高さをもった波がデッキを洗いはじめる。15時、神島が視界一杯に広がる。テトラポットの防波堤をまわりこむと途端に水は静かになった。神島港入港。これで往路完漕。村の中に響くスピーカーで到着を告げる。島の人が出迎える。

参加者は島の民宿に分かれて投宿する。それぞれの宿でそれぞれのもてなしを受ける。伴走船付きとはいえ、自分の力で漕いだのだ。話は尽きない。

~第9回 鳥羽-神島トライアル~:イメージ8

翌日、9時に受付を済ますと10時には次々と岸壁を離れた。名残惜しさよりも漕ぐんだ、という気持ちが勝っているようだ。往路の反省から隊列をなるべく延ばさず、6隻の伴走船が取り囲むように進んでいく。台風9号がはるか南の海上にある。TVの天気予報では画面のはじにあるような位置でもその力によるうねりは確実に押し寄せるという。たしかに昨日よりも大きく、パワーのあるうねりが押し寄せてくる。しかし逆にその分素直になり、パドリングがしやすい。上げ潮も手伝い、神島は見る見る遠くなった。

突然うねりの中からしぶきが飛んだ。とびうおだ。きらりと太陽の光を反射すると、前のカヤックの集団の中に消えた。パシャリ。また一匹。みごとな飛翔で飛び去っていく。我々は彼らにはまだなじみのない物体であろう。

11時30分、菅島に辿り着いた。砂浜に並ぶ色とりどりのカヤック。伝統を最新の技術と理論、そしてデザイナーの感性でモディファイした。

乾燥した昆布を背中一杯にしたお婆さんがカヤックを跨ぎながら村へ向かう。最初は当惑していた様であったが脈々と何十年も続けてきたであろう労働に没頭していた。

簡単な食事を終えた参加者は皆、わずかな日陰を求めて昼寝をはじめた。

菅島の先端部を歩いてみる。波や風で浸食された岩が奇妙な造形を施している。遠く神島が見える。シルエットとなっているそれは往路のときよりも遠くに浮かんで見える。足元の潮だまりを小さな黒い影が弾丸のようにぬけていく。何の稚魚だろう。南からの風が強い。波頭が白くくずれはじめている。

戻ると案の定、当初の予定である菅島の南側を通るのはやめ、往路と同様、答志島との水路を通ることにしたという。同じ風や波であってもカヤッカーのレベルによってゆりかごになったり凶器になったりするのである。ましてイベントである。集団としての技量を見抜く力が必要だ。その点、このスタッフの連中にぬかりはないであろう。

菅島をまわり、いよいよゴールとなる鳥羽小涌園のビーチが見えてきた。白い砂浜と白いパラソルがあちこちに花開き、後ろの木々の上にはホテルが並ぶ。もううねりは入ってこない。しかし海がサラサラと音をたてているのである。流れているのだ。最後の最後でこの日本最大潮流の一つを実感することとなった。

~第9回 鳥羽-神島トライアル~:イメージ9

この当時から遡ること一昨年前、友人とこの海峡を横断したときにもうすぐ坂手島という所でこの流れにつかまり、海でフェリーグライドして島の裏に上陸。潮待ちをしたのだ。しかし今回は休んだばかりで力も充分残っている。まるで川を遡るように流れを抜けた。ゴールはもうそこだ。しかし何ということか。海水浴客であふれんばかりなのである。ネットの端からカヤックの集団はこそこそと入っていく。さらにあろうことか、色とりどりの水着のオネエサンがこれまた沢山おるではないか。こういった光景とはここ数年おさらばしていたので、目がチカチカしてきた。

次々とゴールしてくる人々の顔は一つの達成感に満ちあふれ、志摩の海のように輝いていた。

シーカヤックで自分の力で大海原を渡って島まで行きたい。そして人々の生活をほんのちょっとのぞかせてもらいたい。そんな感覚を味わいたいと思っている方にはうってつけのイベントと言えるであろう。但し、あくまで基本的技術を身につけた人に限るが。

- 西沢あつし プロフィール -
フリーライター・フォトグラファー。主に日本各地のシーカヤッキングにまつわるいろいろなシーンを撮影・レポートして各誌に寄稿してきた。写真は梅田正明氏に師事。昭和41年生まれ、東京都在住。

加計呂麻島、西へ(前編)

Jul. 1996 アイランド・シーカヤッキング

またもや少々古い話で恐縮なのだが、これは96年の7月、奄美シーカヤックマラソンへの参加のために現地を訪れた際、どうせだからもっと漕いでみようと加計呂麻島を西へ向かってツーリングをしたときのものである。おなじみカヌーライフ13号(1997春号)の「パドリングエリアガイド・加計呂麻島北西部」に、加筆したものである。
いまやシーカヤックマラソンも9回目となり、加計呂麻島を漕いだ人は結構な数になると思うし、もう「そんなものをやるために、わざわざ東京からきたのか」なんて言われることもまずないと思うが、この時は何度かそのようなことを言われたことを覚えている。 
奄美シーカヤックマラソンには今年五年ぶりに再訪を果たし、シーカヤッキングワールドの「ダイヤリー」にも一部を掲載したので、せっかくだから、始めてのときのカンドーを含めて、再度ここに書くことにさせていただいた。

もはや国内最初にして最大のシーカヤックイベントとなった「奄美シーカヤックマラソン」。第4回となったこのときには、ニュージーランドからカヌースポーツ社の社長であるグラント=ヒューズ氏を迎え、国際的な大会にしていこうという盛り上がりを見せていた。そして例年なら梅雨も明けて海も空気もべったりの状態なのだが、この年は梅雨明けまさに直後であり、風がまだ強く、しかもレース当日は中潮。かなり荒れた大会となった。しかし、そのおかげで僕と(現)かみさんは、男女混合部門において賞を勝ち取ることができた大会となったのだ。
 
 さて、今回のステージとなった加計呂麻島であるが、(財)日本離島センターが98年に発行したSHIMADASによれば、周囲147.5km、人口 1752人となっているが、来島者はなんと33300人となっている。このうちシーカヤッカーは何人になるのか、とても興味深いところである。
 そしてその加計呂麻島と奄美大島本島の間に横たわる瀬戸内海峡は、地図で見ると東シナ海と太平洋を結ぶ水路のようにも見える。大海が荒れたとき、ここの複雑な海岸線を持つ海峡は絶好の避難ポイントとなるが、またその地形を利用した旧帝国海軍の前線基地のなごりを、随所に目撃することになる。

 今や奄美大島はいろいろなところでクローズアップされ、飛行機も2便になり、時間も若干遅くなり乗りやすい時間帯となったが、この当時はほんとうに朝早くの便であった。危うく乗り遅れそうになったこともある。そして現在もMD81というJASの中でもかなり小型の部類に入る飛行機であることは相変わらずで、前席の人が椅子など倒されようものなら、ヒメイをあげてしまいそうなほど狭い機内は、僕にとってガマンしうるぎりぎりの所要時間である。そのようにして、ようやく奄美大島に降り立ったときには、その暑さとむわっとくる湿度に辟易しながらも、次第にその暑さが、けだるい島時間の感覚へと、その身を陥らせていくことに快感を覚えていくのだ。
 シーカヤックマラソン40kmの長丁場を漕ぐには、とにかくこの暑さと湿気に身体を慣らすことが第一である。

 羽田から奄美大島にかかった時間と同じくらいかけて、バスで瀬戸内町は古仁屋に入る。昼食を食堂で済ませた後、倉庫についていた愛艇「健都号」の梱包を解くと、漁港奥にあるスロープまでえっちらと運んでいった。ハッチに詰め込んだたくさんの荷物を引っ張り出すと、シーカヤッカー御用達、シアトルスポーツのソフトクーラーを肩にかけて買い出しに行く。加計呂麻島へのフェリーが出ている桟橋にあるco-opが目的地。
必要なものはほとんどここで揃うのである。おっと、島すももも忘れてはいけない。これは露天で買った。(後年、台風の塩害によりすももは大きなダメージを受けてしまう。今年、ようやく復活して豊作であったとの報告を受けた)

ようやく準備が出来たのは、もう日が傾きかけていた時分であった。滑りやすいスロープから慎重に乗り込んで、港へと漕ぎ出す。港の中とはいえきっちりと南の海。ちょっと濁ったエメラルドグリーンなのである。ハリセンボンがいっしょうけんめいに胸ビレをばたつかせながら前進していた。
港を出ると、古仁屋を後に西へと針路をとった。最終目的地は江仁屋離だが、今日はとてもそこまで行くことはできないだろう。行ける所まででキャンプの予定だ。
今回の旅は鈴木敏晃氏(現在は長野で木工「芸術家」として精進中)とかみさん。途中まで佐藤氏と漕いでいく。明日の夜からは、奄美シーカヤッククラブの鶴巻氏と平山氏(今回のOutdoorの取材でもたいへんお世話になりました)が迎えに来てくれる手はずとなっていた。
 パドルをそっと水面に入れてひくと、低くなった太陽の光を細かく反射する水面が、その動きに合わせてぐるぐると回った。心地よい風が顔にあたった。

前編 了

- 西沢あつし プロフィール -
フリーライター・フォトグラファー。主に日本各地のシーカヤッキングにまつわるいろいろなシーンを撮影・レポートして各誌に寄稿してきた。写真は梅田正明氏に師事。昭和41年生まれ、東京都在住。

加計呂麻島、西へ(中編)

Jul. 1996 アイランド・シーカヤッキング

加計呂麻島、西へ(中編):イメージ1

さて、古仁屋を後にした我々は順調にパドルを回していく。2時間ほどで加計呂麻島側の薩川湾を横切った。ここで、海峡は大きく「く」の字型に曲がっている。左へ行けば東シナ海、右は白浜と呼ばれるところだ。この白浜には東京から移り住んだ彫金師がいたというが、その後どうなったであろう。この分岐点では左に進路をとる。太陽がもうすぐ山の端に届きそうだ。そろそろキャンプ地を決めてしまわないとまずい。加計呂麻島のコーストラインに航路をとる。海岸線には美しい白浜が続くが、目を凝らすとどの浜もかなり上の方まで湿っている。ということは満潮時にはほとんど浜がなくなってしまうということである。芝という村の手前に、他よりも少々幅のある砂浜が見つかった。もう空は赤くなっている。よし、ここでキャンプをしよう。料理の支度を始めると、鈴木のとしちゃんが釣りの支度をしてルアーを海に投げ込み始めた。何投目かで「かかったー」との声。見ると針は口ではなく胴体に引っかかっている。それにどうも食べるサイズではない。しばらく鍋の中で泳がせた後、海に放した。手ごろな板を見つけて来てそれをテーブルにする。その年に新しく購入したキャンピングベッドを広げてそれももの置きにした。浜の砂は実に絵画的で美し白砂であるが、こうした浜は実はキャンプには適さないのである。この細かい粒子がどこまでもまとわりついて侵入する。ましてカメラは要注意だ。フィルムやレンズ交換の際に砂をかんでしまう可能性が高い。もちろん料理の中にも容赦なく入り込む。焚き火をするには流木がほとんどないので、ストーヴで手早く料理をはじめた。 ちょうど島と島との切れ目に東シナ海が見える。そこに沈む夕日をしばし見つめた。

加計呂麻島、西へ(中編):イメージ2

シーカヤッキングのスタイルとして、いかに荷物を小さく、軽くするかという「ミニマリスト」という方向性がある。エクスペディションをするのであれば、艇が軽いというのは危険回避も含めて、カヤッキングのポテンシャルをあげることになる。この言葉、これは僕の知る限りでは、ニュージーランドのエクスペディションシーカヤッカーであるポールカフィン氏が、当時のエコマリン東京のイベントで来日した折、そこでその考え方を披露したことにはじまっていると思う(「カヌーライフ」誌に掲載)。もちろんその考え方は賛成である。しかし普通のカヤッキングのレベルでは、それが目的というわけではない限り、耐乏生活をすることもないのではないかと思うのである。何かやりたいこと、好きなことがあればそれにこだわる、ということもいいと思う。ただし状況の変化に耐えうる範囲、ということになろうが。僕の場合はきちんと睡眠をとれるようにしたい、というのがあり、この当時はコットに凝っていた。夏の南の島では非常に重宝する。多少地面がデコボコでも平気だし、使わないときにはモノ置きになるし、(特にこのようなところでは砂まみれにならなくて済む)背面に風が通るので涼しく、快適な睡眠がとれるのである。今までシーカヤックに積めるであろう市販されている4種類のコットを次々買って試してはみたものの、残念ながらどれも「これだ!」というものがなかった。畳んだときにまだまだ大きく、重いのである。一番安価であったものが、パイプの材質を変えればこれはイケルというものであった。しかし現在の状況では残念ながら新製品のリリースなんて難しいんだろうなあ。というわけで、今現在はコットはほとんど使っておらず、定番サーマレストと状況によってはその下にクレージークリークを広げて敷く、というかたちをとっている。

加計呂麻島、西へ(中編):イメージ3

翌朝は快晴。しかしながら少々南西からの風が強い。なんとか加計呂麻島の西端の島、江仁屋離に足跡を残せればと思うのだが。風でざわめく海面にカヤックを漕ぎ出す。外海が見えるとゆっくりとウネリが入って来た。続けて漕いでいくと、島から沖に向かって岩が並んでいる。それを越えるとウネリがかなり大きくなる。ここが瀬戸「内」と外海との境界なのだろう。加計呂麻島西端の村、実久を過ぎて島が切れ、海峡を抜ける。前面には大海原が広がる。色とりどりのサンゴは見えなくなり、青がぐっと深まる。ウネリはますます大きくなり、強くなった。江仁屋離はすぐそこに見える。真っ黒なアイノコ(奄美にある伝統的な漁師船であるイタツケと、沖縄のサバニとのあいのこであるため、アイノコとつけられた)が波間に見え隠れしている。ここでは充分に現役の船である。ほどなく島の東側に入り込んだ。南西からのウネリは遮られ、海面はゼリーのように静かになった。前方に洞窟を発見。入るのには狭いが、海底のサンゴは見事である。その時に教えてもらったキャンプ地はここから島を1/4ほど周った砂浜である。大きな岩を周った途端、さらにウネリは高くなり、風で波頭が崩れ始めて来た。しぶきがデッキを洗い始めたが、おそらくそこであろうと思われる美しい砂浜には、真っ白に崩れた波が間断なく押し寄せている。砂浜の上には南国特有の椰子の木や潅木が生え、楽園を彷彿とさせる。しかし、この状態で上陸を強行したら別の楽園に飛んでいきかねないので、また来るための口実ができたと思い、潔く撤退をすることにした。(その後現在もこの島でのキャンプは実現していない。また、江仁屋離のキャンプは島の北側―加計呂麻島側―の方が上陸しやすく、またサンゴもきれいである事がわかった)島を一周した後、加計呂麻島に渡って島の影でウネリが遮られる小さなビーチに上陸した。かなりの緊張を強いられたので喉はからからだ。まずはスイカをずばんと取り出すと、ザクザク切り、片端から口に放り込んでいった。

さて、江仁屋離に変わるキャンプ地を見つけなければならない。強烈な陽射しを遮るもののない浜で、途切れることなくスイカをほお張りながら、青い海を見つめた。

中編 了 / 後編に続く

- 西沢あつし プロフィール -
フリーライター・フォトグラファー。主に日本各地のシーカヤッキングにまつわるいろいろなシーンを撮影・レポートして各誌に寄稿してきた。写真は梅田正明氏に師事。昭和41年生まれ、東京都在住。

加計呂麻島、西へ(後編)

Jul. 1996 アイランド・シーカヤッキング

加計呂麻島、西へ(後編):イメージ1

さて、江仁屋離でのキャンプを断念した我々は、代わるキャンプ場を探さなければならない。出艇すると、加計呂麻島の一番西のはずれにある集落、実久に針路を定めた。実久。鎌倉時代に、源為朝という伝説の英雄がいたという。伝えに寄れば、義家の孫である頼朝の叔父にあたるというのだそうだが、強力でならしており、彼が使う矢は岩をも打ち砕いたという。保元の乱後、伊豆大島に流されてその地で果てたと歴史の書は伝えるが、実はその後琉球に渡り、彼の地でもうけた子供は、琉球王朝の初代の王となったとの伝説もあるという。その伝説の中の為朝は琉球への旅の途中で喜界島に立ち寄り、島の娘と恋に落ちてもうけた子供が実久三次郎であり、その名前はここ実久の名前の由来となっている。親と同様怪力で、実久神社には彼が持ち上げたといわれる石があるが、どうみてもそれは岩であった。

加計呂麻島、西へ(後編):イメージ2

実久に近づくと水はきらめきを増し、限りなく透明へと近づいていった。カヤックの影が海底の砂に映る。しかもかなりクッキリと。時々サンゴの塊が森のように、都市のように眼下に現れては消えていく。飛んでいる。まるで宮崎駿の描く空中浮遊物体のようだ。カヤックを浜に乗り上げると、今度は足ひれと水中メガネを引っ張り出し、この海を全身で堪能しようと海へ飛び込んでいった。 浜にはトイレに水道、そしてコンクリートのデカイ屋根のついた休憩場があった。その屋根にはビビッドな色調で書かれた抽象画がペイントされていた。しかし、誰もいない。村は強烈な太陽の光が、強烈な色と影をつくりだしている。サンゴを積んだ壁にはヒルガオがツルをからませている。強烈なコントラストの中で淡い色がやさしい。遠くから蝉の声。鳥の声がわたってくる。壁とカジュマルだけが残り、既に家がない区画も多い。空き地かと思ったところには「実久三郎の墓」があった。売店らしからぬ売店でビールとジュースを買う。ビールが喉にしみる。痛いくらいだ。途中会った村の人にやぶに入ってはいけないと言われる。ハブに出くわす可能性が高いからという。特にこの時期は繁殖期でもあり、危険だと言われた。ところどころに3mくらいの木の棒が立っている。これはハブに出くわしたときに彼らを殴り殺すための棒である。

加計呂麻島、西へ(後編):イメージ3

一日中凶暴な光線を発していた太陽がやっと山の端にかかり始めた夕刻、堤防まで釣りに行く。堤防につながれた船の陰に見事なミノカサゴがいた。灰色の堤防に場違いな装飾である。堤防の先端には村の人が二人、何をするではなく寝転がっていた。朝と夕方に与えられた心地よいわずかな時間。その横でロッドを振った。ルアーはフォローティングミノー。シンキングは僕の技術だとすぐにサンゴに引っ掛けてしまうのである。土地の人はあまり食べないそうだが、ヤガラでもあがればおかずの一品にはなる。・・・しかしその目論見は見事外れてしまった。山の向こうはまだ赤い光を発していた。その周りはもうすでに漆黒となりつつある。キャンプ地でゆっくりと夕食の準備をする。江仁屋離では奄美シーカヤッククラブの鶴巻さんと平山らと合流する予定であったが、あれだけ荒れていれば、キャンプの場所を代えることぐらい容易に想像がつくであろう。平山さんはプロの漁師である。そう自分に言い聞かせる。もう寝ようかというとき、「誰かがこちらを照らしているよ」という声。テントから飛び出ると、一条の光がこちらを照らしていた。サンゴのかけらの上においたランタンを手に取ると、船に向かってグルリとまわす。すると向こうも同じ反応をした。鶴巻さんたちはエンジン付きの和船で僕らを探しに来た。みんなで焚き火を囲む。しかし控えめな焚き火と(暑いからということもあるが)必要以上には騒がず、南国特有のゆったりした時間を堪能する。平山さんは20数年前、ダイビングをしたくてこの島にわたってきたそうで、他のダイバーよりも魚を突くのがうまかったために、漁師になってしまったという(編集部注:現在はアイランドサービスという会社で、素潜りガイドやウェークボードのインストラクターをしています)。「昔はもっときれいで、もっとたくさんの魚がいたんだ」日本中、どこへ行っても聞いてしまう言葉。この奄美も最初に訪れたときと比べてだんだんと美しさが遠のいているように感じている。

加計呂麻島、西へ(後編):イメージ4

翌日も快晴なり。本島と加計呂麻島のあいだの海から、雲の力こぶがもくもく湧き上がっている。さて、日差しが本格的になる前に古仁屋を目指そう。手早く食事をしてテントを撤収すると、美しい浜を後にする。実久の湾を出ると東シナ海を渡ってきたうねりが我々を運ぶ。まるで大きな緑色のゼリーの山のようだ。僕らが芝の手前、紀伊の橋杭岩のように一列に並んだ岩の列をくぐりぬけると、うねりはそこから僕らを追うことはなかった。昼までにマラソン大会のエントリーをしなくてはならない。時間がないと悟った我々は、3艇をしばってバウに舫ったロープを漁船になげ、牽引してもらうことにした。普段よりも少々重いエンジン音は、一年ぶりに再開する仲間への期待と同時に、島時間への別れであるようにも聞こえた。

(平山さんとはその後もお付き合いが続き、2001年チームOutdoor奄美マラソンに挑戦!多大なるご協力をいただきました。ありがとうございます)

-DATA-

平山さんの無人島シュノーケリングツアーはここ!
アイランドサービス
http://www.synapse.ne.jp/island-s/

後編 了

- 西沢あつし プロフィール -
フリーライター・フォトグラファー。主に日本各地のシーカヤッキングにまつわるいろいろなシーンを撮影・レポートして各誌に寄稿してきた。写真は梅田正明氏に師事。昭和41年生まれ、東京都在住。

ページのトップに戻る