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長崎県・黒島

May. 1996 アイランド・シーカヤッキング

長崎県・黒島:イメージ1

その後、いくつもの日本の島をシーカヤッキングで訪れることになるきっかけの島となった長崎は黒島。島へ渡るそのものが目的であるのなら、フェリーという手段もある。が、自分の体力と知力で渡った島が、自分の予想を超えたところであったなら、どんなに衝撃を受けることになるのだろう。

長崎は日本で最も海岸線の長い県である。それは島が多く、その密度も日本一ということが寄与している。そしてその昔、多くの島々にかつての宗教的弾圧によって、九州本土から人々が渡っていった。島々の多さと激しい潮流により、弾圧の手からのがれることができたのだ。そして、近代になり宗教の自由が保障されると、大都市の喧噪に巻き込まれることなく、日常として信仰に生き、すでに日本では失われつつある人の心が残されることとなったのだ。

佐世保から約13kmほど西に位置する黒島を、地元長崎のシーカヤッカ-につれられて訪れたことがある。周囲12km、九十九島の中では最大の島だ。そして人口の約八割がクリスチャンの島でもある。江戸時代に迫害を逃れるために、何百人ものクリスチャンが外海や大村からわたってきた。

長崎県・黒島:イメージ2

島の名前の由来は、クロス(十字架)がなまったとも、樹木が密生して島が黒く見えるからとも、島から黒ミカゲ石が産出されるからだともいうが、表向きの理由は後2つのどちらかで、一番に本当の意味をこめているのではないかと思う。なぜならここは隠れキリシタンの島だったのだ。真実は常に裏にあるように思ってしまう。本当は表だって行動したいのに何もかも押さえ込まれていた時代だったのだ。

佐世保におけるシーカヤッキングの屈指のゲレンデである、九十九島は金重(かなしげ)島から西に漕ぎ進むこと約2時間、島が多いこのエリア、途中で漁師に島への道を聞きながら辿り着いた。わずかな砂浜になんとか艇を乗せた我々は、急峻なガケをはうように登り、家々をつなぐ細い道を中心部に向かってゆっくりと歩いていった。

長崎県・黒島:イメージ3

木漏れ日が細いけれどきれいに整えられた道に、幾何学模様を描き出す。道端にはよもぎが群生し、海を渡ってくる風が木々で和らげられて心地よい。木立の間からは、遠く平戸の島が望めた。突然の闖入者である我々に、道行く人は皆挨拶をしてくれる。森をぬけると丘の上にトンガリ屋根が見えた。島のシンボル、名切天主堂である。

重厚な赤レンガの造り。そこだけ明らかに景色が違うのである。日本ではないのだ。初夏のぬけるような青空に、天に向かう十字架。この教会はフランス人マルマン神父の設計によるロマネスクスタイル。三層にわたる天井を、黒島産のみかげ石が礎となって支えている。そしてステンドグラスはフランス製、柱や梁などの材料も外国製だ。そしてこれらはすべて信者達によって運び込まれたという。今から90年以上も前の明治35年に、これほどまでの建造物を作り上げたのは、ただ金銭的にどうのではなく、よほど信仰心が強かったからに他ならない。

長崎県・黒島:イメージ4

ちょうどこの時、教会では村の人のお葬式が終了した直後であった。我々はさすがに中にはいるのをためらっていたが、神父さんが我々を見つけると「どうぞおはいりなさい」と招き入れてくれた。(2年後、再びこの島を訪れたが、その時の神父さんはあまりに愛想が悪く辟易したが・・・)恐縮しつつ中にはいると、全身をひんやりとした空気が包んだ。絞りきられた瞳孔が次第に開き中の暗さに順応し出すと、そこには別世界が広がっていた。壮麗、荘厳。正面にはマリア様がやはり優しく我々を見つめていた。ここは信仰の中心であり、生活の絆である。生きた教会なのだ。この時は本当に自分の力で海を渡り、そして唯一無二の生活を垣間見た感じがした。自分の中では確かにカルチャーショックであった。

これ以後、何度もボクは九州、特に長崎に足を運ぶこととなるのである。

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